「かんぴょう」を作ろうと、夕顔の種をまいた。頭のなかには久隅守景の絵があったはず。棚からぶらさがっているかんぴょうの実への期待がふくらんだ。思い違いはここから始まった。かんぴょうイコール夕顔、だが、夕顔イコールかんぴょうではない。私の夕顔は新来の「夜顔」だった。かんぴょうへの期待がしぼむ。これでは源氏物語の薄幸な夕顔の君ではなくなる。香をたきしめた白扇にのせて光源氏に差し出された夕顔の花が夜顔のはずがない。 尾形乾山の茶わんの夕顔をよく見ると、花びらに切り込みがある。これが本当の夕顔だ。たっぷりとした書体で記された「よりてだに露の光やいかにとも思いもわかぬ花の夕がほ」は、光源氏の本歌取りだそうだ。 かんぴょうは望めなくなったが、私の夕顔(夜顔)の花も、妖しく美しい。 | ||
納涼図屏風 久隅守景筆(国立東京博物館所蔵) | ||
色絵夕顔文茶碗 尾形乾山作(大和文華館) |