さくらの器 大皿 徳利と杯 長角皿

木のもとに 旅寝をすれば 吉野山 花のふすまを 着する春風 西行「
山家集」

この歌もそうだが、西行の旅は美しいイメージの背景に何か無気味な気配を感じさせる。
西行は羨ましい人である。同時に平明流れいな歌の底には黒々としたデーモンの影が見え隠れして、常人には危険な人でもある。
西行は豊かな家に生まれ、北面の武士として地下人ながら平安宮廷の雅の中で生き、それが突然失恋だか何だかあっさり世を捨て出家。風狂の旅にさすらうかと思えば、権力者源頼朝に会って銀の猫をもらう。もらったかと思えば、すぐ路傍の子供にくれてやる。編集中の「新古今和歌集」に自歌を選入させようと、若輩の藤原定家にまでごますったりと、何とも複雑な人である。
幼い頃住んだ家の襖には、妙な笠をかぶって後ろ向きに座った黒衣の坊さんと松原、小さな富士山が描かれていた。とても子供の興味をひくような絵柄ではない。ましてその坊さんが「行方もしらぬわが思ひかな」〈「新古今和歌集」〉と悩んでいる「富士見西行」の構図とは知らなかった。
西行が、西行自身コントロールできない心の闇、人間実存の不条理とでもいったものにつき動かされていたとすれば、その矛盾だらけの行動も何となくわかる。だからこそ、

年たけて また越ゆべしと 思ひきや 命なりけり さやの中山〈「新古今和歌集」〉

この歌の「命なりけり」にこめられた西行の万感の思いの何と重いことか。

花見にと群れつつ人の来るのみぞあたら桜の科にはありける〈「山家集」〉

西行とは無縁の大衆にとって、さくらはさくら。花見はオージーな祝祭気分をもりあげる演出効果にすぎないが、それもまた悪くはない。
今全国のさくらの大部分をしめる「ソメイヨシノ」の衰弱がはげしいそうだ。接ぎ木だけで増殖してきたさくらには、遺伝子のエラーがたまってくるらしい。

BACK